東広島市議会 2019-06-20 06月20日-04号
まず、1点目、本市の現状とまちづくりの方向性を問うについてでありますが、東広島市は昭和49年の市制施行以来、言うまでもなく賀茂学園都市構想と広島中央テクノポリス構想の2大プロジェクトによって都市が形成されてきたまちであります。この間、平成の大合併以前の第一次から第三次までの総合計画と、平成の大合併を受けての第四次総合計画を実施してきており、人口6万人から19万人へと成長し続けてきました。
まず、1点目、本市の現状とまちづくりの方向性を問うについてでありますが、東広島市は昭和49年の市制施行以来、言うまでもなく賀茂学園都市構想と広島中央テクノポリス構想の2大プロジェクトによって都市が形成されてきたまちであります。この間、平成の大合併以前の第一次から第三次までの総合計画と、平成の大合併を受けての第四次総合計画を実施してきており、人口6万人から19万人へと成長し続けてきました。
東広島市は、広島大学移転を契機に学園都市づくりと広島中央テクノポリス構想をもとに学術研究都市を、さらに国際化が進む中で、国際学術研究都市を目標にまちづくりを進めてきました。その意味で、広島大学、広島国際大学、近畿大学工学部、エリザベト音楽大学の4つの大学のキャンパスを持つ学園都市づくりは、まちづくりの大きなコンセプトだと思います。
東広島市は、言うまでもなく、賀茂学園都市構想と中央テクノポリス構想という二大プロジェクトにより、都市形成が進められたまちであります。極めて政策的につくられたまちであります。昭和49年の市制施行以来、4代の市長の御尽力により、全国的にも人口減少の進む中において、極めてまれな成長を続けているまちとして、全国から注目をされて発展してまいりました。
言うまでもなく、我が東広島市は、中央テクノポリス構想と学園都市構想によって形づくられ発展してきた、多くの産業団地を持つ製造業のまちであります。先ほどから何度も名前を連呼させてもらっております前川製作所の東広島工場も、本市に立地していただいておるところでございます。
本市におきましては、昭和49年の市制施行以来、広島大学の統合移転等を柱といたしました学園都市建設並びにテクノポリス構想に基づく先端産業の集積を市の基本施策としてまちづくりを進めてきたところでございます。
改めて言うまでもなく、東広島市は、賀茂学園都市構想と広島中央テクノポリス構想の2大プロジェクトにより、学術・研究・技術を集積した、いわば知の集積都市として明確なビジョンを持ってつくられ、広島県の成長の象徴として確実な成長を遂げてきたまちであります。
我が東広島市は、昭和49年の新市がスタートして以来、西条地区においては、賀茂学園都市構想やテクノポリス構想、広島大学の統合移転、そして、多くの試験研究機関が立地し、都市の形態が完成しつつあります。これらの都市の中枢施設を補完するために、住空間の整備の目的として西条第一土地区画整理事業がなされました。
1974年、昭和49年以来、賀茂学園都市構想と広島中央テクノポリス構想、この2大プロジェクトをてこにして、都市基盤・産業基盤整備を進め、全国でもまれに見る成長を遂げ、人口も市制移行当時の約6万4,000人から19万人と大きく伸びました。
また、広島中央テクノポリス建設につきましては、先端技術産業を中心とした産業部門とアカデミー部門、そして、居住部門が有機的に統合しました地域づくりを目指す国のテクノポリス構想に基づき、広島県が、賀茂学園都市建設により、テクノポリスの基盤形成を先行して進めている東広島市を中核とした広島中央テクノポリス開発構想を策定し、事業着手したものでございます。
東広島市は言うまでもなく、学園都市構想と東広島テクノポリス構想により、学術、研究開発、技術集積という、いわば知の集積都市という明確なビジョンによりつくられた、広島県の成長の象徴のような町であります。そして、この明確なビジョンに基づき、この間、都市基盤整備を集中的に進め、着実な成長を果たしてきたところでございます。
今現在、広島県の東部工業用水道を東広島市が幾らもらっているかという数字そのものは、ちょっと資料が手元にございませんので、今、申し上げることはできないんですが、先ほどおっしゃいました1万5,800トン、当初の昭和60年、これは、言われたように、広島中央テクノポリス構想を実現するために、工業用水を引っ張ってくる必要がございましたので、それを東広島市に向けるために、呉市が最初に県と振りかえをしたものでございます
内陸部の産業団地は、議員おっしゃいますように、広島中央テクノポリス構想及び呉新世紀の丘開発構想に基づき、新たな生産拠点といたしまして、これまで広島県が桑畑工業団地、郷原工業団地を、呉市が長谷工業団地と苗代工業団地を整備し、企業を誘致してまいりました。
内陸部の産業団地は、議員おっしゃいますように、広島中央テクノポリス構想及び呉新世紀の丘開発構想に基づき、新たな生産拠点といたしまして、これまで広島県が桑畑工業団地、郷原工業団地を、呉市が長谷工業団地と苗代工業団地を整備し、企業を誘致してまいりました。
また、創造的技術立国と定住構想を目指したテクノポリス構想を誘致したことも戦略的であり、それが都市としての飛躍的な成長、発展の原動力にもなりました。
本市も、広島大学や近畿大学工学部の移転、広島中央テクノポリス構想などにより、学術研究機関や産業支援機関の集積する産業都市として急成長を遂げ、人口増を続けてきました。特に学生や産業従事者などの増加による住宅事情に伴い、政策的な供給促進を行うとともに、民間事業者による戸建て、マンション、集合住宅などの建設が進められてまいりました。
私が政治の道に入りましたのが、かれこれ30年ぐらい前でありましたが、このころはテクノポリス構想が花盛りで、御多分に漏れず呉市も広島中央テクノポリス構想の母都市として、広島市、東広島市と一緒に取り組んでまいりました。その当時からトライアングル構想として、道路網の整備や産学官の役割分担など、産業振興策を論じられてまいりました。
私が政治の道に入りましたのが、かれこれ30年ぐらい前でありましたが、このころはテクノポリス構想が花盛りで、御多分に漏れず呉市も広島中央テクノポリス構想の母都市として、広島市、東広島市と一緒に取り組んでまいりました。その当時からトライアングル構想として、道路網の整備や産学官の役割分担など、産業振興策を論じられてまいりました。
呉市は広島中央テクノポリス構想の母都市として技術開発の中心的役割を与えられております。また、呉市はテクノコリドールを完成させなければなりません。しかしながら、国立の大学と私立の大学、県の技術センターの連携をとっていくことは容易ではありません。呉市には荷の重い仕事かもわかりません。しかし、呉市が推進しなければ進むことはありません。 ここで質問します。
呉市は広島中央テクノポリス構想の母都市として技術開発の中心的役割を与えられております。また、呉市はテクノコリドールを完成させなければなりません。しかしながら、国立の大学と私立の大学、県の技術センターの連携をとっていくことは容易ではありません。呉市には荷の重い仕事かもわかりません。しかし、呉市が推進しなければ進むことはありません。 ここで質問します。
1980年代の通産政策ビジョンの中にテクノポリス構想がありました。将来有望な産業はないか、地域経済の未来に少しは夢を与えてくれる産業はないかと地方自治体が模索をしていたところでした。この構想で全国26カ所が地域指定を受け、新しい産業研究開発を創造していきました。呉市も1984年3月から当時の3市、呉市、竹原市、東広島市と2町、黒瀬町、安芸津町で広島中央テクノポリスの地域指定を受けました。